20浜垣 靖幸 氏 第1章 デザインマネジメント 【株式会社ノイエカ 代表取締役】

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浜垣 靖幸 氏


株式会社ノイエカ
https://www.neueka.com/

代表取締役

略歴

2000年 (ノイエカ前身) Gutegrafika設立
2005年 株式会社ノイエカ設立

事業内容

・デザインマネジメント
・プロダクトデザイン/パッケージデザイン
・広報媒体デザイン
・ウェブサイト・ウェブシステム


2018年最後のインタビューは、私の高校の同級生でもある、浜垣社長です。

「一番苦手なことで起業する」

一風変わった考え方で、しかし芯をしっかりもって、起業してから20年近く経営しています。

ぜひご覧ください。


 

1.デザインの道に

 

学生のころからデザインには全く興味を持っていませんでした。

デザインの仕事に関して何も知りませんでした。

学校を出てからはしばらくフラフラしていました。

 

1992年に22歳になった時に「そろそろしっかり仕事をしよう」と思いました。

そして「しっかり仕事をするなら一番苦手なことをやってやろう」と思ったんです。

僕は子供の頃から、時々そういうことをする性格だったんです。

 

その時に、世の中に色々な職種がある中で、自分に一番縁遠いもの、苦手なものは何か、というのをリストアップしていきました。

その中の候補の一つに「デザイン」というものがあることがわかりました。

自分自身デザインのセンスも全くないし、どんな仕事かもわからない。

では仕事としてやることは「デザインだ」となったんです(笑。

 

当時はバブル景気が崩壊し始めた頃でしたが、まだバブルの名残がある時期でした。

適当にデザイン会社を見繕って、突然応募しました。

会社を選ぶ時の基準も“面白そうなことをやっている会社”を探して選びました。

 

未経験者の私が飛び込みでデザイン会社に応募しても「いいよ、来いよ」という感じでした。

 

ラッキーなことに、たまたまそうやって入社した会社は、非常に柔軟な考え方をする変な社長さんの会社でした。

僕がイメージとして持っていた「デザイン」の仕事とは、仕事の広がり方が全然違いました。

いろいろなことをやっていたんです。

 

おかげで、全くデザインの経験もなく入社したにも関わらず、様々な経験をさせていただくことができました。

 

今にして思うと、その時にそれらの経験をできたことは本当にラッキーでした。

 

当時の北海道でのデザインの業界は、基本的には広告産業にぶら下がっている状態でした。

広告という大きな括りがある中での「デザイン」という仕事だったんです。

 

でも、そこの会社では、広告のデザイン以外のことを積極的にやっていたんです。

 

以前に北海道で開催された、食などに関連する大イベントを手掛けていたりしました。

 

当時は全国、全道に「道の駅」ができ始めていたころで、その「道の駅」を広めるためのプロモーションなども手掛けていました。

 

その他にも携帯電話が世の中に普及し始めていたときだったので、携帯電話広めるためのイベントを開催したり、プロモーションなども展開していました。

 

そのように広告の制作にとどまらない、様々な仕事を結構やっていたんです。

 

その会社での経験により、広告の制作に限らず様々な仕事の素地を身に着けることができました。

 

もう一つ、当時のデザインの制作がアナログからデジタルに移行するタイミングだったこともラッキーでした。

 

アナログでの制作はフリーハンドで絵を描いて、切って、貼って、の世界です。

職人的な仕事です。

そのやり方での仕事も学びました。

そして、デジタル化が進んできたときに、アナログからデジタルへの制作をどう移行するか、

という役割を担うことになったんです。

僕がたまたまコンピューターに詳しかったことで、その役割を担当することになりました。

 

1996年、そういった様々な貴重な経験をさせていただいた時に、その会社が倒産してしまいました。

 

 

 

2.宣言

 

 

その会社は色々なことを手広くやっていた会社でしたので、リスクも高かったんだと思います。

 

当時その会社で私は、私も含めた5人のプロジェクトメンバーで仕事をしていました。

 

会社は倒産しましたが、受託していた広告の仕事はまだかなりの量があったんです。

その頃仕事を発注してくれていたある広告代理店が、僕ら5人のために会社を準備して、それらの仕事をできる環境を整えてくれたんです。

 

デザイン業界でも有名だった会社の社長が、その会社の社長も兼務してくれることになり、僕らは仕事に集中できる環境になりました。

 

でもその頃の僕は非常に生意気で、社長にこう言ったんです。

 

「僕は4~5年程度で経営者になります。この会社で経営者になるか、それが無理なら自分で別に会社を作って経営者になりますので」

 

特に確たる目標があった訳ではありませんが、準備してくれた会社に入社した初日にそう言ったんです(笑。

 

自分がいる会社が倒産する、ということを経験したこと。

運よく受け皿の会社を準備してはもらったものの、自分がやりたい仕事なわけではないだろう、ということ。

4~5年程度で自分が考える仕事のやり方とか、自分が考えるデザインというものを確立したいと思っていたこと。

それらの理由と、その当時から4年たつと20世紀から21世紀(2000年)に替わる時で、なおかつ自分が30代になる年次だったという理由で「5年で辞めて独立する」と言ったんです。

 

当時から僕自身が何かをするときには、4年~5年のスパンで変化をしていく、という行動をしていたんです。

 

どちらかというと自分自身を追い込むための「宣言」だったんです。

 

それを宣言してからその会社で働きはじめました。

 

株式会社ノイエカが入居しているレンタルオフィス「BIZ SHARE」の受付
従業員は全員が遠方の在宅勤務
「基本的に固定の事務所は必要ない」と言い切る浜垣社長は
“Office Less” “Waste Less” “Paper Less” を実践している

 

 

3.アイデアを具現化して

 

 

2年ほどは静かに働いていました。

 

3年目に入ってからは、今の会社の仕事とは別に自分で新しい事業を作っていくことについて社長から許可をいただきました。

その時の会社のお客様とは違う業種や職種の会社に対し、自分で営業して、様々な提案をして仕事をやらせていただく、といことを始めました。

もちろんその仕事の売上は会社に付きます。

社内ベンチャーのミニチュア版、という感じです。

 

もともとその会社でのデザインの仕事は「広告制作の下請け」、でしたから仕事は広告代理店から降りてくる(発注いただく)仕事です。

広告代理店からの仕事は、景気が良いときはどんどん仕事がありますから何の問題もありません。

でも下請けの仕事ですと、景気が悪くなって企業が広告費を削減するとすぐに仕事はなくなってしまうリスクがあります。

 

でもデザインの仕事って本来、下請けで指示されたものだけを作ることよりも、もっと可能性があり活用できる場面はあるはずだ、と思っていたんです。

まだビジネスとして誰も手を付けていない方法でのデザインの仕事っていうものがあるはずだ、と考えていたんです。

 

そういった未開拓のデザインのビジネスモデルを理論的に考えるようになっていきました。

 

毎日考えていました。

「これをこうしてこうなったらお金になるんじゃないか」とかです(笑。

ずーっとそういうことを考えては自分の頭の中で何度も検証をして、とやってたんです。

 

完全に机上の空論です(笑。

 

でもそれらの理論で考えたビジネスを、実際に仕事として取り組んでいったんです。

それで上手くビジネスになるケースがあったり、全然うまくいかないケースがあったり、という感じで進めていきました。

 

3年目の時からそういった仕事を様々取り組んで、2年ほど経ったら大きな成果が出たんです。

 

いろいろと理論的に考えていたビジネスモデルの中の一つの仕組みが、とても上手くいったんです。

 

当時はグループ会社も含めると20人ほどの会社でした。

僕1人の売上の方が他の19人の従業員の売上を上回ってしまったんです(笑。

 

広告制作におけるデザインの仕事というのは従量制です。

1つのデザインの価格は、単価×制作時間、で決まるんです。

つまり掛け算でした、人件費単価×制作時間、でしか売上が増えませんから、人件費の切り売りなんです。

 

でも当時の僕はまずデザインの仕事を分解しました。

僕自身はディレクションだけをやります。

実際の制作は雇用している従業員ではなく、結婚や出産でデザインの仕事を辞めていた主婦の方を札幌市内で二十数人集めて、在宅でデザインをしてもらう、という仕組みを作ったんです。

主婦になって退職したデザイナーさんの中には、とてもスキルが高い人も数多くいたんです。

僕はディレクションをするだけで、二十数人の在宅の人が実際のデザインをしますから、一人で二十数人分の売上を上げることができたんです。

 

それほどの売上を一人で作ってやっていたら、2000年になったときに社長の方から「君は独立してくれ」と言ってきました(笑。

 

その社長は「長年デザインの仕事をしてきたが、君がやっているのはデザインではない。その方法でどんどん売上をつくってしまうと、他の従業員のデザイナーへ悪い影響をあたえてしまう」と言うんです。

確かに、他の19人のデザイナーは頭を捻って、徹夜などをしてデザインを一所懸命作っているんです。

でも僕はそれをやらずに、電話とパソコンでの指示だしだけで簡単に他の従業員よりも稼いでいる。

僕のビジネスモデルが、他のデザイナーへ与える影響を考慮してのことだったんだと思います。

 

 

 

 

4.独立 ~お客様を持たずに起業~

 

 

もともと僕自身も2000年で独立する、と言っていたこともあり、辞めて独立することになりました。

 

当時、デザイン業界で独立するときは、お客様をもって独立するの通例でした。

でも当時の僕は、変な自信をもっていて「僕のお客様は会社に置いていきます」といってお客様を持たずに会社を辞めたんです。

「その時の仕事もゼロから自分で作ったんだから、これからもまたゼロから作れるはずだ」と思ったんですね(笑。

 

今考えたら本当にもったいないことをした、と思っています(笑。

 

2000年の3月末でお客様を持たずに会社を辞めました。

 

2000年の4月と5月は法人設立の準備をし、6月に法人登記をしました。

今の株式会社ノイエカの前身にあたる、合資会社グートグラフィカという会社を設立しました。

 

前の会社にお客様を置いてきましたから、お客様はいません。

顧客0、売上0、という状態でのスタートです。

その後売上0というのは半年間続きました(笑。

この時期は厳しかったです(笑。

 

それまでは会社員・従業員の立場で“イキがっていた”だけだったということがわかりました。

経営のノウハウもなく、いきなり独立して「さあ、これからどうする!?」という感じスタートでした。

 

いろいろと先進的なビジネスモデルの案を作ってはいました。

 

でも、まず実際にやったことといえば知り合いの人たち巡りです。

 

「会社を辞めました。自分はこんなことをしたいとかんがえているんです」

 

「自分ならこんなことができます」

 

など、自分のアイデアを話しに行ったんです。

 

一通り知り合いの方を回った後は、更にもう1周、という感じです(笑。

 

そうやって、6月に会社を設立して3か月ほどは、ただ知り合いの会社を回っていただけでした。

 

 

5.収入を確保し

 

 

会社を辞めて6か月(法人設立後3か月)ほどが経った9月ごろからようやく仕事をいただけるようになっていきました。

 

訪問していた知り合いの方から、お情けで「ではこんなことはできるかい?」と仕事をやらせていただけるようになってきました。

 

自分がやりたいことではなくてもその方が「こんなことできないかい?」と言われたことをやり始めた、という感じです。

 

その頃、世の中では公共施設や商業施設では誘導サイン(UI)を利用者にわかりやすいようにしっかりと設けることが重要だ、という流れになっていた時期でした。

商業施設などでは誘導サインを改善するだけで売上も向上する、ということが首都圏では一般的になって時だったんです。

ところが北海道にはまだそんなノウハウを持っている人がいませんでした。

 

そしてその頃、札幌のある百貨店の改装がありました。

札幌駅に大型商業施設ができるタイミングでもありました。

 

知り合いの方で、大型店舗の設計などを手掛ける設計事務所の方がいらっしゃいました。

その方から「君暇だよね。商業施設の誘導サインについて勉強して、それを図面に落とし込んでくれ」と言われたんです。

 

まず、東京の銀座のデパートや大阪の商業施設に行って徹底的に現地調査しました。

勉強をして、ノウハウを得て、札幌の某百貨店と札幌駅の大型商業施設のUI原案を作りました。

 

9月ごろから仕事が始まりましたが、その仕事の売上の入金は、翌年の3月でした(笑。

起業したばかりで、お金周りのことをよく知らずに、言われるがままにそのような契約内容にしてしまったんです。

 

でもそれにより、僕の名前が広まり、当時北海道には有効なUIを作れる人が他にいませんでしたから、札幌市内のいろいろな施設のUIを一手に請け負っていくことになっていったんです。

そこから半年以上はUIの仕事ばかりをやっていました。

 

その仕事により、食べていけるようになりました。

 

でもUIの仕事は自分がやりたい仕事ではなく、その仕事だけをやっていては独立した意味がありません。

 

UIの仕事の合間を縫っては、自分がやりたい仕事のプレゼン資料を作り、また知り合いの人を訪問しては提案をして、ということを続けていました。

 

でもその提案はなかなか芽が出ませんでした。

 

今考えると、当時の提案は確かにビジネスモデルとしては成り立つし、首都圏では受け入れられるかもしれないけど、北海道ではまだ受け入れられない、というものが多かったと思います。

 

自分が得た情報だけで机上の空論でビジネスモデルを考えていたので、北海道の市場には全然マッチしていませんでした。

 

当時はそのことに気付かずに、提案し続けていたんです。

 

でも後々、この経験は良い結果をもたらすことになるんです。

 

 

 

6.転機 ~アイデアを具現化するために~

 

 

2002年になり、札幌市の財団法人である札幌産業振興財団が起業支援を始めることになりました。

札幌市にスタートアップの会社を育てる方針ができたんです。

しかもその財団がインキュベーション施設を作ってスタートアップ会社を入居させて育成する、という試みが始まりました。

たまたま新聞を見てそれらのことを知りました。

 

IT系の会社を育てるエレクトリックセンター、デザインやクリエイティブ産業を育てるインタークロスクリエイティブセンター(ICC)、一般のビジネスを育てる札幌市産業振興センターの3つの施設ができることになったんです。

 

先ほどもお話ししたように、それまでは知り合いの方を回っては「あんなことがやりたい。こんなことがやりたい」と話していました。

 

でも、札幌市が新しく作ったその施設に入居すればそこにはスタートアップ企業が沢山いるわけですから、知り合いを回らなくても、そこでの横のつながりで効率良くそういう話ができるのではないか、と考えました。

 

「そこで自分を育ててもらおう」

 

そのプロジェクトに参加することにしました。

 

そこではあえて、デザインやクリエイティブ産業を育てるインタークロスクリエイティブセンターには入らずに、一般のビジネスである産業振興センターに入りました。

 

デザインのビジネスをする人たちだけの中にいても新しいビジネスモデルは生まれない、と考えたんです。

 

自分がデザインという武器をもって、他のビジネスをしている人たちと交流することで新しいことを生み出したかったんです。

 

産業振興センターの第1期として入居しました。

 

このことが大きな転機となりました。

狙い通り、その施設にいるギラギラとした起業家の人たちと横のつながりができました。

 

いろいろなビジネスの考え方を知ることができました。

そこは3年間までしか入居することができないんですが、その3年間はとても勉強になりました。

 

当時は、札幌市もインキュベーション施設を作ったのは初めてでしたから、施設の運営側自身も試行錯誤の状態でした。

いろいろな先生を呼んではセミナーや議論などをしていたんです。

僕らも起業したばかりの頃ですから、運営側も入居側もみんなが試行錯誤です(笑。

最初の1年間は皆で「これからどうする?」という感じなんです(笑。

 

でもその状況は今にして思えばある意味ではラッキーでした。

普通では絶対に会うことができないような有名なコンサルタントの方や著名人などを何人も呼んで勉強会を開いたりしていたんです。

初めての取り組みの初年度だったからこそお金をかけてそうなっていたんです。

 

そこで先進的な考え方やビジネスモデルについて沢山学ぶことができました。

 

僕自身はデザインという武器を持っていたので、デザインを活用した起業のスタイルを確立するための学校のような3年間を過ごすことができて、自分の強みにすることができました。

 

 

第2章へつづく