7 太田 宜志 氏 IT【株式会社ナップザック 代表取締役】

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太田 宜志 氏


株式会社ナップザック
http://napzak.jp/
代表取締役

略歴
2013年 ナップザック 創業
2016年 株式会社ナップザック 設立(法人化)

事業内容
ITコンサルタント
ソフトウェアの受託開発
ウェブサービス運営など


大阪で生まれ育ち、北海道で起業へ。

常識を超えて、40代の今でも自ら最高の開発をしながら、上流工程までを網羅する。

「仕事が大嫌い」と言いながら、妥協しない最高の仕事を目指し続ける理由はどこにあるのか。

お話をお聞きします。


1.子供の頃

 

【子供の頃から】

 

大阪で生まれ育ちました。

 

小学生の頃から、将来はシステム開発を仕事にしようと決めていました。

 

実は父がバルブの会社で設計を担当する技術者でして、いわゆるエンジニアですね。

そのため、家にはいらなくなった図面がたくさん転がっていて、それを裏紙にして絵を描いて遊んでいたのです。

小さなころから設計図に触れていたことも、僕自身に何らかの影響を与えていたのかも知れませんね。

はじめはプラモデル作りから始まり、何かを作る、ということがとても好きになっていき、「モノづくりを仕事にしたい」と考えるようになったのです。

そして友達がパソコンを持っていて、家にあがりこんではプログラムを入力して遊んでいるうちに、次第にプログラミングに興味を持ち始めました。

 

当時はどの家庭にも普通にパソコンがあるような時代ではなかったので、まわりには誰も理解してくれる人はなく、「将来これを仕事にするから出世払いでパソコンを買ってくれ」と母親に交渉してようやくパソコンを手に入れました。

今はむしろ親の方が「やりなさい」という時代でなんだか羨ましいです。

しかし今になって振り返ると、自分で本を買ってきては独学で勉強していたので、「自分で努力や工夫をしながら技術を磨く」という仕事のトレーニングをしていたとも言えますね。

随分時間が掛かってしまいましたが、パソコン代は起業して1年後にちゃんと出世払いで全額お返ししましたよ。利息なしですが(笑)。

 

その後、大学では情報処理を学びたいと考え、当時はまだ実務に直結した情報処理の大学が少ないなか、創立してまだ4年目の北海道情報大学に入学しました。

ここから北海道との関りが始まります。

とくに北海道に憧れがあった訳でもなく、暑いところよりも寒いところの方が過ごしやすいかな?くらいにしか考えてなかったのですが、もう人生の半分以上を北海道で暮らすことになってしまいました。

 

2.起業前

 

【社会で経験を積む】

 

大学で4年間勉強して、就職は従業員30人ほどの大阪の会社に就職しました。

大学の恩師の紹介です。

大手メーカーと取引する、小さくても実力のある町工場のような会社です。

大きな会社に就職しても大したことは学べないだろう、と考えていた僕からの要望だったのですが、まさに狙い通り、この会社でその後の仕事のすべてを教わりました。

その大阪の会社に2年務めたのち、再び北海道に戻ってきました。

この2年のあいだに情報処理技術者の資格を取得、システム開発の仕事のやり方も覚え、母校である北海道情報大学の研究生をやりつつ、1年間ほどは勤めていた会社の仕事を請け負いながら生活していました。

WEB地図の開発

 

1年が経ったところで自分もまだ若く、このまま起業するには早いだろうと考え中堅規模のソフトウェア会社に再就職しました。

300人ほどの会社です。

そこで何年か仕事をした頃、一部上場のソフトウェア会社から声をかけていただき、さらにキャリアアップ。

独立系のソフトウェア会社のなかでは日本で一番大きな会社です。

そしてさらに今度は「新しく会社を立ち上げるからSEとして来てほしい」と声をかけられ、従業員5人の会社から再スタート。

僕が在籍している期間に30人ほどの規模まで成長しました。

 

これらの転職によって僕は町工場のような小さなソフトウェア会社から、300人ほどの中堅のソフトウェア会社を経て、一部上場企業、さらにはゼロから立ち上げていく会社で仕事を経験しました。

 

現在の事務所での開発の様子

 

【起業の動機】

 

 

すべての規模の会社でソフトウェア開発の仕事に携わり分かったことは、サラリーマンをやっているうちは、この仕事では

「サラリーマンとしてどれほど成功しても収入には上限がある」

「会社に勤めている限り、やりたい仕事や自由なライフスタイルには限界がある」

 

ということです。

さらに転職を繰り返しても、「サラリーマンである以上は同じことだろう」という想いが強くなりました。

その限界を外すためには自分で起業するしかない、と思い始めたのです。

 

【準備】

 

いざ起業しようと考えると、子供がまた幼くなかなか起業するタイミングを見出せなくて、5年ほどかけて準備を進めました。

技術的には自信がありましたので、仕事さえあればやっていけると確信していましたが、一番の課題は

「仕事を取ってこれるかどうか」

 

です。

そこで人脈を広げるためと、自分で仕事を受注して納品するための訓練として、サラリーマンであるうちにプライベートでいろいろな取り組みに関わらせていただくようにしました。

たとえばフリーペーパーを作っている会社が、「ウェブサイトを会員制にしたいんだけどどうしたらよいかわからなくて困っている」とのことだったので、そのシステム構築を手伝わせてもらいました。

そのシステムは今でもその会社の事業の柱として稼働していますよ。

このようにして給料をもらって生活ができている間に、「起業の訓練」としてシステムを開発して納める経験を積み重ねていきました。

 

【決断の時】

 

起業前の最後の一年は、とても高いレベルの仕事をやらせていただきました。

 

そのときの僕がそのような仕事に関わらせていただけるというのは、本当にラッキーなことでした。

普通であれば、外資系のコンサルティング会社がやるような高度な業務と、開発会社のシステムエンジニアやプログラマーが分担してやるような作業を、すべて一人でやってしまっているような仕事内容でした。

業務分析、産学官のステークスホルダーとの連携・調整、方針決定、そして自分で開発する

 

という。

今も同じような守備範囲で仕事をしていますが、この守備範囲で仕事ができるのは僕自身(弊社)の最大の強みだと思います。

24時間365日仕事をしているような状態でしたので、この仕事を最後に、起業しようと心に決めました。

あまりここで詳しく書きすぎるといろいろ問題もありますが、正直なところ会社員として勤めを継続できるような環境でもなかったですし(笑)。

 

起業のタイミングは今で大丈夫なのか?とも考えました。

 

しかしこのタイミングを逃してしまうと、子育てがひと段落しても次は進学でお金が必要になってくるなど起業できない状況は続き、また何年も起業できなくなってしまうだろう。

「今しかない」という感じでしたね。

 

僕の子供は二人兄弟ですが、ようやく下の子供も小学校に上がった頃でした。

橋梁点検現場にて(太田代表:右端)

 

 

【最後の準備】

 

 

会社に退職の意向を伝えて、有給休暇を使っている状態の2ヵ月ほどの間に最後の準備をすすめました。

起業に向けての営業活動です。

 

まずは自分自身を露出することから始めました。

SNSを開設したり、様々な交流会や勉強会に参加したりして、受注につなげるための動きを始めました。

仕事につながりそうな方に出会ったら、自己紹介をして自分のできることを説明してといった感じです。

さっぽろ大通コワーキングスペース「ドリノキ」に作業場所を借りていたのですが、そこでは定期的に勉強会や交流会が開催されていたので、まめに参加していましたね。

 

もちろん起業に向けての貯蓄もしていたのですが、「まだ大丈夫」なんて思っていると貯蓄はすぐに無くなってしまいますから、この貯蓄は使わないで残しつつ、切れ間なく仕事を入れなければと考えていました。

今でもそうですが、家庭があるとは言え、経済的にも精神的にも誰にも頼ることができない孤独な挑戦でしたね(笑) 。

大通コワーキングスペース「ドリノキ」の時期




 

3.起業

 

 

【第一ステップ=「第一の恐怖」】

 

2013年1月に開業しました。

 

退職して、開業届を出したときに「あ、今日からもう本当にサラリーマンとしての仕事は何もないんだ。自分は起業したんだ」と気づき、突然、恐怖心が湧いてきました。

 

「あれ? 今、仕事がない。いったい何で食べていけばいいんだろう」と。

そこからしばらくは平然を装いながらも、眠れない日々が続きました。

眠ってなんかいないで仕事をとってこなきゃ、と。

 

そんな日々を過ごしていて1ヵ月弱がたったときに、先ほどお話したコワーキングスペースの勉強会で、ある開発センターの責任者の方と知り合いました。

技術者が不足しているということで、常駐での開発の仕事をいただくことになったんです。

これで恐怖と不安から解放されましたね。

 

その開発センターからのお仕事は、個人事業主として月の委託料をいただきながら、朝に開発センターへ行って夜まで仕事し、コワーキングスペースで深夜まで自分の仕事をして家に帰るという生活だったんです。

やっていることが、ほとんどサラリーマンと変わらなかったんですよね(笑)。

そのように仕事をしていると、一方では少しずつですがホームページを見て、仕事の依頼をいただけるようになってきました。

それでもまだホームページ経由での仕事だけでは食べてはゆけないので、常駐の仕事をやりながらそれらの仕事に対応するという生活でした。

 

1年半ほどは、そのように仕事をしていましたね。

常駐の開発は、サラリーマンのときと同じくらいの収入にはなりますし、その仕事の性質上、実力さえあれば10年も20年も続くような仕事でもあったんです。

ただ、受託の単価はそれ以上あがるわけではないし、ずっと同じ年収でやっていてもしょうがないなと思っていました。

そもそも朝センターへ行って夜帰ってくる、という生活はサラリーマンと変わらないので、この作業をずっと続けていてはダメだと考えていたのです。

 

そのため、他に自分で受注した仕事も並行して少しずつ増やしていったのですが、1年半ほど経ったころから、ある程度の大きさの仕事を頂けるようになってきたのです。

そこでそれらの仕事をするために、開発センターを数か月休ませていただき、自分で受注した仕事を完成させ、納品したらまた開発センターに戻る、というようにしてゆきました。

そのように開発センターの常駐、自分で受注した仕事、と交互にやるようになって1年半ほどしたところで(常駐の仕事を始めて計3年ほど経った頃)に、自分で受注する仕事が十分な量になってきたこともあり、完全に開発センターを離れる決断をしました。

大通コワーキングスペース「ドリノキ」の様子

 

【第二ステップ =「第二の恐怖」】

 

開業したとき、突然襲ってきた恐怖心が第一の恐怖だとすると

開発センターの仕事を完全にやめる決断をしてそのことを伝えたときに、第二の恐怖が襲ってきました。

 

一般的な開発の仕事はシステム開発をして納品した段階で終わりなので、今年は仕事があっても、来年また同じように仕事がある保証はどこにも無いんです。

今は自分で受注する仕事が十分な量になったけど、来年は大丈夫なのか?と。

実は「常駐作業はもうできません」といった瞬間、自分で「おい大丈夫か?」と心の中では思っていました(笑)。

 

自分で仕事を受注するためには、常に人脈をつないでいかなければならないですし、駆け引きや営業戦略もしっかり考えて行動しければなりません。

これまで以上に多くの方に、自分のスキルをしっかりと知っていただかなければならないのです。

そのため、最低限、一度ご依頼いただいた方へは、いただいた金額以上の価値を生み出して信頼をいただくように努力しました。

一度でもお話をいただいた方へは、最高の提案ができるように、常に創意工夫を続けました。

「来月は受注がないかもしれない」と考え、今ある仕事を最高のものにすることに誠心誠意、努めました。

このような仕事のやり方をしていると、また次の仕事をいただき、さらに知人を紹介いただき、不思議と自然に仕事がつながっていったのです。

 

それでも、来年また今年と同じように仕事をいただける保障があるかというと、そんなことは全くないのです。

 

「来年はゼロかもしれない」

 

 

このリスクは常にあります。

 

どんなに大きな会社でも、ソフトウェアの開発という仕事はそういう仕事だと思います。

自社製品を持っていてそれを売っている仕事ではなく、お客様から開発の依頼を受けて初めて仕事が成立するので、来年どれくらいの売上があるかなんて全くわからないのです。

 

常駐作業をやめて、1年間はなんとか仕事がありました。

でもその1年が過ぎる頃は、「来年はどうだ?」という状態です。

「では、来年ゼロにしないためには、今何をしなければいけないんだ」ということを毎日考えながら仕事をしていました。

そのように考えるようになってきて、今にして思えば「第二の恐怖」からが、自分にとっての次なる展開の第一歩だったのだと思います。

 

 

4.起業後

 

【法人化】

 

その「第二の恐怖」の時期と同じころ、自分で仕事を受注するようになると、お客様は基本的には法人なので、取引するには受注側も法人でなければならないというケースが出てきました。

 

そんななか、札幌市の振興財団と商工会議所の連携で観光をテーマにした異業種交流会があり、そこにIT事業者として参加したのですが、ほかの参加者は皆さん法人の方で、僕だけ個人事業主だったんです。

これはさすがに恥ずかしいと思ったのが法人化する最終的なきっかけでした(笑)。

それまでは個人事業主で仕事をしていたのですが、2016年に法人化(設立)しました。

東京出張

 

 

【地域への貢献】

 

先ほども言いました通り、ソフトウェアの開発というのは安定した仕事というものがそもそもない仕事です。

来年少しでも安定的な仕事を受けるために、とにかくいろんな取り組みにチャレンジしました。

そのチャレンジにはお金にならないこともいっぱいやりました。

 

例えば、コワーキングスペースにいたライターさんから「札幌のまちのクラウドファンディングを運営したい。しかしお金はないので、システム屋さんである太田さんにも立ち上げメンバーに入ってほしい。そしてシステムを作ってほしい。」と相談を受け、引き受けることにしました。

札幌市には「札幌の景観色」というものがあるのですが、大きな建物にはこの景観色を使わなければいけないという制度です。

クラウドファンディングを使って、「札幌の景観色で大通公園のベンチの色を塗りたい」という方がいましたので、クラウドファンディングの最初のプロジェクトとしてご協力しました。

さらにそのベンチの色を投票で決めるシステムを手掛けたり、その塗り替えプロジェクトに参加したりもしました。

また「さぽら」という札幌景観色をテーマにしたカードゲームを制作するプロジェクトでは、かるた遊びに使う専用の読み札アプリケーションを開発・提供しました。

「札幌の景観色」を市民の皆さまに知ってもらうためには、分かりやすいホームページも必要だろうと考え、「札幌の景観色」を紹介するウェブサイトも構築しました。

札幌景観色ちかほサイネージ

 

開発の様子

 

これらは完全にボランティアです。

 

 

 

自分ができることを、地域のために無償でも惜しまずにやっていると、地域のためにもなるし、自分はこんなことができると知っていただく良い機会にもなり、また新たな仕事をいただくいい循環になるだろうと考えたのです。

ただその期待に反してまったく仕事には貢献しなかったですね(笑)。

よくよく考えてみると、そもそも僕の仕事は表舞台には出ないものです。

表舞台に立つ人が舞台裏の人にも賛辞を送ってくれないと、僕の存在や努力を知ってもらうことはないのです。

開発の様子

 

しかしひとつだけ良かったことは、のちに子供たちにプログラミングを教えるボランティア活動を始めることになるのですが、ボランティア活動が仕事に貢献しないのならどのようなボランティア活動をやりたいのか?と考えるよいキッカケになったと思います。

 

自分の仕事や存在が社会にどのように貢献できるだろうか?

と考えるようになりました。

 

クラウドファンディングを使って塗装されたベンチ

 

 

【生活の変化】

 

 

起業すると生活は一変しました。

仕事はとにかく忙しいのですが、仕事のための人生ではなく、僕は人生を楽しむために仕事をしていたいと考えているので、仕事の合間を見つけては全力で遊ぶようになりました。

テレビを見る時間も無駄に感じ、だらだらすることが一切なくなりましたね。

 

少しでも時間ができると「次は何を仕掛けようかな」「どういうプロモーションをしようかな」と考えますし、逆に仕事があれば土日関係なく仕事をするといった具合です。

もちろん遊ぶときは全力で遊びます。

一日はあっという間に過ぎていくなぁと思っているのですが、振り返ってみると1年前のことが3年くらい前のことのように思え、じつは人より3倍も長く生きているのかも知れません。

生活の変化は価値観の変化にもなったと思います。

取り組みの一つ ソーラー発電

 

【「恐怖心」の力】

 

 

このように取り組んできたわけですが、独立してからこれまでは売上が一度も下がったことがないんです。

ただ、独立したときに目標にしていた売上額があったのですが、それはなかなか超えることができなかったのです。

 

システム開発の工数単価というのは、全国だいたい一律です。

どんなに実力があっても、やはり上限がある訳です。

1年は12ヵ月しか仕事ができませんから、どうやっても一人でやっている以上、一人分の売上の上限を超えることは難しいのです。

一人ではなく何人かでやれば、もちろんさらに売上を伸ばすことはできます。

しかしまだ人を雇うような状況でもないので、自分の生産性を上げ、人が開発するよりも早いスピードで開発して、なおかつクオリティの高いものを作ることを目指し続けました。

 

そんななか、2ヵ月くらいまともな仕事がない時期がありました。

そのときは必死に営業活動しました。

毎日が恐怖なので必死でしたよ(笑)。

 

そうしたら逆に、次々に仕事の依頼をいただくことになって、普通だったら一人で絶対にできないほどの受注残を抱えてしまったのです。

それでも仕事が無いよりは仕事がある方がいいと考え、もうがむしゃらに仕事しました。

そして年度末の決算を締めてみたら、上限だと思っていた売上を超えてしまっていたのです(笑)。

 

2ヵ月売上がない月のロスがあって、10か月で1年分の仕事をして、本当に気が付いたら目標を超えてしまっていた、という感じでした。

独立してすぐに設定したその目標を「第二の恐怖」の後、なんでも全力でやるようになって、気が付いたら超えていた、ということです。

あのときの「第二の恐怖」があったからこそ、必死に全力でやっていて、その結果超えることができたんですね。

 

独立4年目のことでした。

 

ソーラー発電

 

5.開発の信念

 

実は開業したときから、開発の効率化と品質に対しては強い思いを持っていました。

僕のホームページにも詳細に記載しています。

http://napzak.jp/software-commoditization.html

 

その方針に沿って、生産性と品質を上げ続けてきました。

今でも変わらず、同じ考えでやり続けています。

何年も常に必死にそれをやり続けてきたら、開発の生産性と品質、そして手法は、正直言いまして、誰にも負けないと思います。

この仕事は、一般的には年齢の影響が大きく、効率的に良い開発ができるのは20代から30代前半くらいまでと言われています。

ですが、40代半ばの今の僕は、その世代の3倍は確実に早く開発できると思っています。

 

むしろ全て自分でやっている分、つまり、分析のフェーズから、コンサルティング、提案、営業的な交渉も全て自分で対応し、しかも自分で会社も経営しているので経営者の目線もある。

となると、僕が開発すると単なるプログラミングをするということではないのです。

ソフトウェア全体をデザインしていることになり、価値あるソフトウェアを生みだせるのです。

 

6.仕事をする上での考え方

 

【「良いできごと」「悪いできごと」】

 

仕事をやっていくなかで、「良いできごと」と「悪いできごと」を考えると、

 

「良いことは偶然でしか起きない」ものだと考えています。

ここまで準備したのだから必ず良い結果になる」なんてことは言えません。

良いことは偶然でしか起きないから「良いことが起きますように」とお祈りするしかない。

うまくいかないときがあっても、「しゃーないか」と思うようにしています。

それは運命なんだと。

 

逆に「悪いことは必然的に起きる」ものだと考えています。

悪いことは、起きる理由・原因があって起きてしまう。

だから、常に恐怖心を持って、できるだけ悪いことが起きないように努力する。

お客様との折衝の段階から始まり、実際に開発をするときも、全てのプロセスで悪いことが起きる原因をできるだけ無くすようにする。

常に自分のベストを尽くすことで悪いことは無くすことができると考えています。

つまり、悪いことを起こさないことは自分の努力で可能なのです。

恐怖心があって、自分で考え抜いたなかで、ぼんやり見えてきて形成された考え方です。

 

 

【第一ステップと第二ステップを経て】

 

第一ステップ、第二ステップは良いことばかりではありませんでした。

 

第一ステップ、第二ステップは仕事を広げていかなければいけないということで、自分自身を露出するようにしていました。

色々なところに顔を出しては、まったく儲けにならないことにも協力して、将来の仕事の可能性のために、それほど親しくない方とも繋がっておくなどしました。

本来僕は、友人や知人は少ないほうが良いと考えている人間なんです。

多くの人と関わっていかなければならなくなっていったときに、価値観が違う方ともお付き合いし、最終的には破綻して辛い思いをするようなこともありました。

そうなると、どこかで人間関係を整理していかなければならない。

とても大好きな人でも、相手が私と同じように考えていないのならサヨナラしなければいけないタイミングもあります。

それが今まさに第三ステップの段階だと思っています。

 

第一ステップ、第二ステップは翌年の仕事がない恐怖を無くすために、人脈と仕事を拡大するフェーズだったと言えます。

その甲斐あって売上も人脈も思った以上に拡大し、良い業績にもつながったんですが、一方では僕のことをホームページ制作の人だと思っている人や、なんでもタダでやってくれる便利な人だと思われているところもあり、第三ステップでは拡大しすぎたこの状況を取捨選択して、本当に信頼できる仲間を見つけていかなければいけません。

互いに慕いあえる関係性じゃないと信頼して仕事ができませんので、仕事上の付き合いしかしようとしない人はサヨナラするようにしています。

ちょっとした気配りや、わざわざ足を運んで会いに来てくれることにとても嬉しく思いますし、もちろん僕も会いに行くことで気持ちを伝えるようにしています。

仕事の内容云々よりも、人として魅力を感じることができるかどうかをとても大切にするようになってきました。

ほかに楽しい仲間ができたり、仕事にプラスになるような話があったりすると僕との関係性を保とうとしなくなってしまうような人は、その人とどんなに深い取り組みをやっていても簡単に梯子を外されてしまいますので、お互いに相思相愛なのかどうかを考えるよう、心掛けています。

仕事の受発注の関係になくても、僕のことを「面倒くさい奴だなー」と思いながらも気に掛けてくれている人は、本当に大切な仲間だと思っています。

 

 

7.現在

 

【第三ステップ】

 

今でも常に恐怖心です。

 

この創成川イーストエリアに構えている事務所ですが、先ほどお話したクラウドファンディングのプロジェクトの流れで、このエリアの街づくりに僕のような事業者がいると便利なこともあるだろうと考えて移転してきました。

街づくりには「変わり者、よそ者、ばか者」が必要と言われていて、僕自身それに当てはまるし、今の時代、街づくりにはやはりシステムができる人間がいないと何もできないでしょうから、この創成川イーストエリアに事務所を設けて、そのお手伝いをしようと考えました。

システムは一番お金がかかりますからね。僕が加わることでそのお金がかからなくなりますし(笑)。

 

このエリアでは月に一度くらい、神社で街づくりの集いが開催されていたのですが、そこには僕たちの親の世代の方もいらっしゃるんです。

「昔のこの辺はこうだった」とか、地元のお話をたくさん聞かせてくれて。

僕自身、アウトドアが好きなのでもともと山のなかに入るときは神様の存在を意識していたりするのですが、このような街づくりの交流を通じて、神社との関りが増えてきました。

母方の祖父母が神道だったこともあり、気持ちが不安なときは神社にお参りもするようになりました。

こうして少しでも恐怖心を和らげています。

創成川イーストエリアの 北海道神宮頓宮

 




【自分の強みを生かして新たな展開へ】

 

 

こうした変化のなか、次第に僕が活躍できる仕事のフィールドがつながってきたものが、産学官連携の仕事です。

大学を中心とした、産学官の連携で新しい技術を開発するという仕事をさせていただいています。

サラリーマン時代に、最後にやらせていただいた国の仕事を、今、再び僕の会社でやらせていただけることになったんです。

連携の先は、東北、関東の大学、自治体などですので、今は常に日本のどこかに行って仕事をしている状態です。

今の大学はただ勉強を教えるだけではなく、「社会に直接貢献する研究の成果」を生んでいかなければならないんです。

研究した成果を社会実装することが求められています。

そこには僕がいままでやってきたこと、産学官の連携のノウハウ、僕自身が単なるプログラマーではなく、分析、コンサルティング、産学官の全関係者の調整などの上流工程から、設計、プログラミングにいたるまでを全て一人で経験している民間の人間が必要となっているのではないかと思っています。

 

別な言い方をすると、プログラムができて、民間での仕事をしてきて、街づくりにも関わっていて、官の立場での仕事も理解でき、学の立場の仕事もしたことがあるシステムエンジニア、というのは日本の中にも他にはいないんじゃないかと思っています(笑)。

 

これが、今の僕の大きな強みです

 

一般の会社では、エンジニアは、初めはプログラムをしますが、昇格して管理者になってしまうと、もう、お客様の窓口やマネジメントに徹していくようになり、実際のプログラムは全くやらなくなっていくものです。

組織の中では、実際の仕事、つまりプログラムは下層のレイヤーが担うのですが、お客様とお話するのはマネジメント層の人なんです。

そうすると、開発の最前線の実情を知らずにお客様と話をすることになるので、どうしても出来上がるものには、お客様とのズレが発生してしまうんです。

 

僕はいつまでたっても自分で開発できますし、40代の今でもその力は衰えていないどころか、多くの経験によって、より研ぎ澄まされていると思っています。

しかも上流工程もさらに多くの経験を積んで、お客様との打合せも自分でやりますから、僕の代わりを一人でできるという人はいない状態になってきています。

もう、僕自身が、「システムエンジニア」とか「プログラマー」とか「コンサルタント」とか「マネジャー」とかを超えた、「新しいくくり」の職種になっていますので、「ソフトウェアデザイナー」という言葉で自分を表現するようにしています。

 

より良い国にしようとするとき、今の時代は必ずシステムが必要になります。

 

橋やビルなど、物理的に大きなものを作ろうとすると、どうしても多くの人の数が必要になります。

一人の力ではできないんです。

しかしシステムづくりでは、物理的な形がないものなので、数名のスーパーエンジニアがいれば、とてつもない物を作る事だってできる世界なのです。

だからこそ、僕のように「一人で全部できる」ということが可能になるんです。

だからこそ、今の僕のこのスタイルが機能しているんだろうと思います。

 

 

 

8.これから ~将来のスーパープログラマー~

 

今は一人で会社をやっていますが、これからは人を採用していこうと思っています。

すでに多くのニーズがあって、全てに応えられないほどになってきているんです。

社員を採用し始めたら、後ろを振り返ることなく、ひたすら前に進み続けるしかないと考えています。

ニーズがある限りは、それに応えられる規模にしていかなければいけない、と思っているんです。

ただそのときに、大企業と同じような構造には陥らないようにするにはどうしたら良いか、今から考えはじめています。

とはいえ今はまだ人材を育成している余裕はありませんから、いきなり高いセンスとスキルを持った人材を採用しなければなりません。

実際、そう簡単には見つかるものではないので人を増やせていないんです(苦笑)。

 

今、「CoderDojo」というボランティアによる世界的なプログラミング道場で、子供たちにプログラミングを教えています。

教え始めて1年ほど経ちました。小学生で「プログラムが好きだ」という子供たちをサポートする形態で教えています。

 

これは僕の夢ですけど、そのなかの子供たちが10年経てば20歳を過ぎてきますから、そういう子供たちの中からスーパーエンジニア、良い意味のスーパーハッカ―が生まれてくれて、「子供のころコーダー道場にいたんですよ」なんて言ってくれる人たちと一緒に、国家レベルのシステムを作れたら良いな、なんて考えています(笑)。

 

(注釈)(良い意味の)ハッカー:普通のコンピュータ利用者なら知らずに済むようなシステムやネットワークの内部の働きに通じ、その上を行くのを喜びとする人。ホワイトハッカー。

「CoderDojo」

「CoderDojo」

 

 

9.起業してよかったこと

 

 

 

起業して良かったです。

 

僕の体質的に合っています。

僕は、基本的には、人生のなかで仕事は一番じゃないんです。

もっと言うと仕事は大っ嫌いです(笑)。

 

仕事は大っ嫌いですけど、仮にもう仕事はしなくてもいいくらいのお金が貯まったとしても、仕事は続けているだろうなと思います。

「お金持ちになりたい」みたいな欲求は全くなくて、逆に「仕事さえやれていればハッピーだ」なんて気持ちも全くありません。

「ライフスタイルをどう設計するか」が自分のなかで一番大事なことなんです。

 

常に子供の頃から「将来を考えたときにどのようなライフスタイルにするか」「ライフスタイルをどのように充実させるか」ということをすごく突き詰めているというか、一番大切にしています。

僕の場合の「ライフスタイル」は、アウトドアが好きで、山登りも最近始めて、カヤックも何年か前から始めて、キャンプも行くし、最近は子供がついてこないので一人でキャンプに行っていますが(苦笑)、自然というか、アウトドアがその中心にあります。

車にしても、世の中には高級な車はいくらでもありますが、僕は高い車を買うのが目標ではなく、自分のライフスタイルのイメージのなかで「この車で、こういう天気の日に、この場所へ行って、こういう時間を過ごす」ということを満たしてくれる車が良いのです。

休日のアウトドア

 

仕事があるからこそ、遊びがより一層楽しくなる。

 

 

仕事は仕事でしっかりやって、ひとつ仕事を片付けたから、また遊ぶ。

遊びをより楽しくするために、仕事を一所懸命頑張るんです。

「仕事はシンプルな方がいい、遊びは面倒くさい方がいい」だなんて心の中で思うことがよくあります。

そのどちらかを否定するような人とはお友達にはなれませんね(笑)。

 

これらは、僕には起業しないと実現できないことでした。

サラリーマンだと、時間などいろいろな制約がありますからね。

平日に「昨日ひとつ仕事を終えたことだし、今日は天気がいいから遊びに行こう!」なんてできませんからね。

「夜中にキャンプ場で仕事するから大丈夫です」といっても、サラリーマンでは認めてもらえません。

キャンプ場にて

僕の仕事は、いつも使っているパソコンがあって、ネットがつながる場所であれば、アウトドアしながらでもどこでも仕事ができるんです。

 

テントの中でも、山の上でも、どこでも。

 

それ自体が、先ほど言った僕の「ライフスタイル」なんです。

これは起業していなければできないことですからね(笑)。

 

執筆後記

実は太田さんには以前、当社と当社のお客様にとっての大切な業務のシステムを開発していただきました。

そのシステムの素晴らしさと、その短納期には本当に驚くばかりでした。

そのシステムによって当社の業務の生産性が大幅に向上したのです!

当社サイドでそのシステムの要件を定義したMZと、本インタビューの太田さんの二人によってできた最高のシステムであるといえます。

少なくとも私にとっては、太田さんは間違いなくスーパーエンジニアです。

(1ユーザーとしての個人の感想です)

今回、仕事とは別に初めていろいろなお話を聞かせていただいて、これほどまでに人柄が良く人間的に魅力的な方が、これほどまでデジタルなシステムを組むというそのギャップにとても驚きました。

北海道へ来ていただいて、本当にありがとうございます。