17 谷本 智之 氏 第1章 ソーシャルゲーム関連 【株式会社 エクスデザイン 代表取締役】

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谷本 智之 氏


株式会社 エクスデザイン
http://www.exdesign.info/

代表取締役

略歴
2008年11月 創業
2013年 3月 法人化

事業内容
イラストレーション事業部
●ソーシャルゲーム、コンシュマーゲーム等キャラクターイラスト全般、
背景、アイテム、アバター関連、制作、管理、マンガ、
その他広告イラストレーション全般制作業務
●クリエイター育成教育事業
●キャラクターコンテンツ製作事業

スプライトアニメーション事業部
●Live2D・Spainを使用したアニメーション制作業務

エクスラボ事業部
●グッズ企画・制作 ●通販サイト運営 ●商品開発販売事業
●(株)ワイストーン 総合販売元エクスコスメ運営
http://silkamino.jp/

クリエイティブ事業部
広告制作業
(ロゴマーク、チラシ、ポスター、フライヤー、ポストカード、
新聞広告、名刺、封筒、サイン、コースター、CDジャケット、
ステッカー、印刷管理代行、写真合成、WEBサイトデザインなど)


「もみあげ社長」こと、破天荒な谷本社長

その自由で真面目でお人よしな、自分のことは二の次で

誰よりもクリエイターにやさしいその起業のお話をお聞きします


 

1.起業前

 

大学は東海大学旭川キャンパスに通いました。

卒業して普通は就職をするものです。

僕の場合、親に1年間だけ猶予をいただき、大学生の頃から続けていたバンド活動をさせてもらいました。

 

その時からずっと同じ思いを持ち続けているものがあります。

当時から、モノを作って人に見てもらいその反応を受ける、ということが非常に楽しかったのです。

バンドの活動もそういったことの一つでした。

演奏自体よりも、告知をすることに楽しみを置いていました。

告知のチラシを作ったり、ポケットティッシュにチラシを折り込んで配布したり、いろいろな方法でバンドの告知活動をしていたんです。

バンド自体はある程度地元でも認知されていったんですけど、それで食べていくとなると話は別で、「儚き夢」となりました(笑。

 

それで学生の時からアルバイトをしていた、そうご電器YESに就職することを決めました。

当時の店長から「うちに就職しろよ」と声をかけていただいたのです。

私を含めて2名の内定があったのですが、その直後からその会社の経営が悪化しました。

「2名のうち1名しか採用しないことになった」と言われたのをきっかけに僕が辞退をしました。

 

それを機に、大学生やバンド活動の時から考えていた「クリエイティブな仕事をしたい」という思いを実現したいと考えました。

 

そこから主婦のかたが副業でおこなっていたフリーペーパーの事務所に入りました。

しかし、年末に給料がストップして、正月実家にも帰れず近くの居酒屋で皿洗いのバイトをしました。

次の職をさがしていた1月にアルバイト雑誌を見たら、偶然にも旭川のデザインプロダクションの募集が掲載されていたんです。

すぐに電話をして「今から面接に行っていいですか」から始まり、とんとん拍子に面接していただくことが決まりました。

最終的に採用を決めていただいた理由は、僕が面接にもっていった作品集のなかの年賀状でした。

学生の時はまじめに授業は受けてはいましたが、そんなに精力的に作品を作っていたわけではないんです。

バンドのチラシ以外は作っていなかったんです(笑。

僕のポートフォリオは、今思うと大学生のものとしてはかなり力不足のポートフォリオだったんですけど、作品数とレパートリーだけは多かったんです。

バンドのチラシなど、かなり沢山つくって実際に配布していたものがありましたから。

その中の一つであった年賀状を気に入ってくださって、採用いただくことになりました。

 

その会社ではホテル関係の仕事が多く、

旭川と札幌の主に外資系のホテルのサインやデザイン関係を1社でまるまる全て請け負っていました。

会社の社長の方針として「まるまる全部任せてもらえないなら請け負わない」というスタンスでした。

その社長は、とても実力ある方で、建物から作るところから提案が始まる、というくらいの実力をもっていらっしゃるような方でした。

だからこそ「全て任せてもらえないなら自分たちは関わらない」という考え方だったんです。

 

ブライダルやレストラン、サウナのサインに至るまでの全てをやらせていただいていましたので、かなり勉強をさせてもらいました。

クリエイターとしての本質というか、お客様のために何をするべきか、というところまで学びました。

一番変わっていた仕事は、ある動物病院の仕事をしたとき、そこでも薬袋からサインに至るまで全てを制作していたのですが、そこではエアコンの取り付けまでもやりました。

デザイナーとしてご依頼をいただき、エアコンの取り付けをしたんです。

 

ただ、やはり大学での勉強を疎かにしていたことがここで効いてきました。

僕は、大学でデザインの理論や基礎にしっかり取り組んでいなかったんですね。

それがこの時まで尾を引いて影響をしてきました(笑。

 

勉強って「学校で勉強をしてこないと社会に出て後から尾を引く」と皆さんおっしゃるんですけど、僕はその通りになってしまいました(笑。

 

デザインの「感覚」はある程度は分かるんですけど、正しい理論と知識が全くない状態でしたので、

そういう話になった時に「授業で聞いたことはあるな」とは思うんですけど、理解はしていないんです。

となると現場に出たときに相当苦労するんです。

そこで必死になって本を読み漁ったり、「なぜこうなるんだろう」という事に時間をかけて考えたりはしました。

それでも時の社長であり師匠が出来過ぎる方でしたので、非常にバランスが悪いというか、上手くいかなくなって行ったのです。

 

当時の社長とは完全に師弟関係で、「言われたことは全て正しい」という関係の中で仕事をしていました。

 

非常に厳しく育てていただいていて、僕にとっては良かったのですが、ある日社長から僕がお客さんが求める制作に対しての理解が足らず「お前なんかデザイナーじゃない」と言われてしまいました。

それがきっかけとなり、「では自分には何ができるだろうか」と考えることになりました。

 

その社長であり師匠からは

「お前はゼロから自分で何か作ることはできる。でもそれはセオリーに沿っているわけではない。その人の意図をくみ取って求めるクオリティのデザインとなるかどうかは別な次元の話だ。」

と言われました。

 

 

 

 

2.一度目の半独立

 

結果、社長からは「自分で完結する仕事を自分でやれるだろう」と言われたんです。

 

それで、営業から始まり、撮影、ディレクション、ホームページの制作など全てを自分でやらせていただきました。

 

その経験で自分にも自信がつきました。

 

それにより会社を辞めて、旭川で子供向けのフリーペーパーを自分で作ることにしました。

ただし、理解のある社長でしたので、独立してもその会社の事務所とデスクを月々少しの利用料を支払って、そのまま使わせてくれることになったんです。

そして、自分で営業をして、取材もして撮影もして配布先まで自分で確保して、アシスタント1名と私でフリーペーパーを発行しました。

 

そうすると、フリーペーパーに対するリアクションは全て自分に返ってきます。

自分が作ったものが良かったのか、世間のためになるのか、というのが全て自分に反応が返ってくるんです。

そして結果としては良い反応が返ってきたんです。

ただ、如何せん僕の営業が下手くそ過ぎて、利益を追求できていなかったんです。

利益はださなければいけないのですが、一人でやっていたこともあり「自分が食べれればいい」という感覚でスタートしてしまっていました。

 

フリーペーパーを発行した結果お客様が喜んでくれればそのお客様が別な仕事をくれるだろう、という様なイメージをして発行していきました。

そうなると、お客様に別な仕事を頂けるまでの評価を得るまでの間、短期的には苦しい状況が続くんですが、まだ自分は若いから何とかなる、と考えて続けていました。

 

横では元の会社の皆さんが普通に仕事をしながらその様子を見ているのです。

僕が自分で冊子のフリーペーパーを作ってどんどん発行している姿をです(笑。

 

フリーペーパー以外にも名刺などのデザインの仕事を受注したり、元の会社から仕事を受けてたりもしはじめて行きました。

 

 

 

 

 

3.完全に起業

 

1年半ほどそのように仕事をしていたのですが、元の会社の社長が「お前、できるんだからうちの会社に戻ってこい」と言われ

その会社に戻ることになりました。

 

戻ったんですが、やはり社長の下で仕事をする、という形は仕事がしにくく感じました。

 

一度、自分で営業して任せていただいた仕事で、自分が作ったものの反応をダイレクトにお客様などから受ける経験をしていますから。

 

社長がお客様から信頼されている状況の中で、僕が社長の信頼を崩さないようにアプローチをしていく、という仕事の仕方は、嫌ではありませんでした。

でも自分の仕事の反応をお客様からダイレクトにいただける楽しさを一度知ってしまうと、お客様と自分の間に人がいる状況に違和感を感じてしまったんです。

「このまま社長との主従関係を続けていたら自分を出すことができない」

とジレンマも感じ、

「自分にでもできる事はもっとあるんではないか」

と考えはじめました。

 

そんな時に札幌の知人から「東京の会社が札幌に拠点を作るんだけど、その会社に来ないか」と声をかけていただいたのです。

「とりあえず札幌のホテルに来てほしい」とのことだったので行ってみると、すでにその会社に僕の内定が決まっていて、しかも役職は札幌支店長だ。と言うんです(笑。

 

とんでもない会社ですよね(笑。

 

「札幌支店は任せる」と言われたんですけど、何を任せられるのかもわからない状態です(笑。

約30名ほどの従業員も決まっていて、いきなりその支店の支店長です。

 

札幌支店の役割は、印刷物の版下を作るいわゆる「制作工場」みたいな現場でした。

僕が前に働いていた旭川のデザインプロダクションは、「お客様のためにどう良いものを作るか」ということで頭を使う仕事で、しかも社長と先輩と僕の3人の会社でした。

 

そこからいきなり専門学校を卒業したばかりの新人がほぼ8割を占める30人の部下を持ちました。

自分のチームは「デザイン性のあるコンペと、レギュレーションにのった版下制作」の仕事をする、というある意味相反する作業が混在する大変な状況でのスタートだったんです(笑。

 

とにかく東京本社からどんどん仕事が振られてきます。

仕事は完全な消耗戦でした。

 

依頼をいただく仕事は、主に折込チラシなどの商業的なチラシの制作が多く、それをひたすら作り続けます。

納期もタイトで且つ量も沢山あるんですが、基本的にスキルと経験が圧倒的に低い新人ばかりですから、デザインコンペなども飛び交うので、僕自身の仕事が膨大になってしまってました。

 

制作からチェックなど僕一人にかかる負担が相当なものとなり、

3日連続徹夜、4日連続徹夜、会社の床で寝る、自宅にはシャワーだけ浴びに帰る、というのが当たり前の状態となっていたのです。

そんな仕事を2年弱ほど継続していると、さすがに体調を壊すまでに追い込まれていきました。

 

それを機に、「広告制作ってこんな会社しかないなら自分で会社を作ってやる」と考えました。

 

その会社を退職することにして、退職と同時に個人事業主として自分の事業を始めることにしました。

 

そうすると、その辞めた会社の上司だった人が「すぐに仕事を頼みたい」と打診頂き、

その仕事の内容と量を聞くと、僕一人ではできない量の為、2人の従業員を雇うことにしました。

 

2008年の秋、個人事業主として創業しました。

 

 

 

 

 

4.いきなりの危機

 

事務所を借りて電話も引いて備品もそろえて、2人の従業員の雇用を決めて、事務所のオープンを迎えました。

そして創業と同時にリーマンショックが世界を襲いました(笑。

 

仕事を頼みたい、といっていた元の上司に電話をすると、声のトーンが暗いんです。

「ごめん、仕事が無くなった。今それどころじゃない」と言うんです(笑。

 

予定していた仕事の量が3分の1ほどまで減っていました。

リーマンショック後は広告業界全体が市場が3分の1まで縮小する、と言われていましたが、僕の仕事も例外ではなくその通りになったんです。

 

仕事の量についても正式な書類や契約書があった訳ではなく、口約束でした。

そして初めに聞いていた仕事量をこなすために既に2名を採用していました。

起業するときには十分な仕事がある予定で、1ヵ月分の資金があれば翌月には売上金額が入ってくる予定でしたから

特に開業資金の借入などもせず、十分な運転資金は準備していませんでした。

 

浅はかな計画でした(笑。

 

いきなり、有るはずの仕事が無い状態でのスタートとなりました。

従業員への給料やビルの賃料なども含めて当面の運転資金が必要になります。

 

すぐに事業計画を作り直し、国民金融公庫へ走りました。

 

国民金融公庫の人は、その事業計画を見て「しっかりしていますね」と言ってくだいました。

 

僕としては、そのように言われることは意外でした。

個人事業主で開業する人は、事業計画を持たずに借入をしに来る人が多いらしいんです。

僕はExcelで作った、単なる毎月の収入と支出の予測と返済計画書を持って行っただけで非常に信用してくださったんです(笑。

「これであればしっかり返済できますね」と言ってくだいました。

審査もスムーズに通りまして、1回目の借入をすることができました。

そこで300万円の運転資金の借入をしました。

起業して1週間の時でした。

 

もちろん、運転資金を借入するだけでは会社は成り立ちません。

 

札幌市内、中央区のビルというビル、お店というお店を歩いて、チラシのポスティングと飛び込みの営業をしました。

 

リーマンショック後の2008年末~2009年初めの頃の雪の中です。

 

狸小路は屋根もあり、まだ暖かいので狸小路を中心に歩き回りました(笑。

「屋根があるっていいな」と思いながら(笑。

 

最初は受付で断られても何度も通って、5回目ぐらいにお邪魔したときに担当者の方にお会いさせていただいて、そこから提案をして、というような営業です(笑。

先方から「こういうことできるの?」と言われる前に自分から、「ここにこの商品があるんでしたらこういったサインを設置しませんか」など、お店や会社を見て自分から提案していきました。

 

もともと旭川のデザインプロダクションの時に、1軒丸ごと請負って「お客様のために何ができるか」を常に考えてどんどん提案をする仕事をしていたことがこの時に活きました。

 

「今のこのままではお客様にはわかりにくいので、こうしたほうが良いと思います」など、新しい切り口でご提案をしたところ「じゃやってみようか」となっていったのです。

 

その時にお客様になっていただいた方々は、ずっとお付き合いさせていただいています。

例えば商店街の角地のお店の外看板の仕事で、数百万円ものお仕事を任せていただいたこともあります。

 

通常でしたら広告代理店などに発注するような仕事を直接やらせていただいたりしました。

 

ただし当社は掛売ができる体力はありませんから、「現金支払いのみなんですけどいいですか?」とお聞きし、取引していただきました(笑。

 

 

 

 

 

5.方向転換

 

そのように進めていたんですが、その後広告業界に嫌気がさすようになっていきました。

 

モノ(広告)を作るうえでの楽しさ、というのはお客様に対して納品したときに喜んで頂けたり、「おかげで売上が上がったよ」言っていただけたりすることです。

ただ、私たちが広告を作るその商品自体は、自分たちで作ったものではありません。

自分自身が「良い商品だ」と思えていないような商品についても、その商品が売れるように広告を作る、という仕事もどうしても発生してしまうんです。

そうすると「なんかイヤだな」という思いを持ちながら仕事をすることになるんです。

 

全然素晴らしい商品なわけではないのに、「この商品はこんなに素晴らしい商品です」という広告を作らなければいけないんです。

 

言葉は悪いんですが、ある意味では詐欺に加担しているような気持にさいなまれてしまうんです。

自分の中では納得できていない表現をお客様から指示されることもあるんです。

「こういう表現で広告を作ったら、ユーザーは誤解してしまうんではないか?」という広告を作らされることもありました。

でも確かにそう書けば売れるだろうな、というのはわかるのです。

 

広告の制作をしているとそういう仕事も結構あるので、僕自身は最終的に広告を辞めて水を売りたい、とさえ考えていました(笑。

 

何故かというと、人には必ず必要なモノですし、おいしかったら喜ばれます。

究極の商品は水だろう、と思っていました。

自分で納得できるものも納得できないものも含めて、いろいろなモノの広告をたくさん作っていると、その考えに行き着いたのです。

 

とはいってもそれは「究極」であって、水に関してはすでに事業化されている方々が沢山いる中で、しかも資本力がない僕にはそこに参入して行けません(笑。

なので水の事業はもちろんできなかったのです(笑。

 

小さな広告会社では、広告の仕事でクライアント以上に利益を出すことはできない、ということに気づいていました。

 

大手広告代理店のように、自分は営業に特化してあとは外注、としない限り大きな利益をだすことは難しい、と。

受注をした仕事の制作は外注して、とすればリスクも少ないです。

 

自分たちで広告の制作をして広告業をすると、売上の上限は、自分たちの工数の上限を超えることは絶対にできないわけです。

 

売上を増やすには広告を作る従業員を増やさねければなりません。

そうして従業員を増やしていくと、逆に売上を増やさなければならない、となりいつまでたっても安定化することが難しかったんです。

 

そこに今度は東日本大震災なども起きて、更に広告業に対する不安も増大していきました。

仕事自体は楽しいんですけど、経営に対する不安を常に感じていました。

 

それで、話は大学時代に遡るのですが、僕はもともとCG(コンピューターグラフィックス)をやりたいと思って大学を選んでいました。

 

でも思っていただけでその当時は行動をしてませんでした。

ようやく保存メディアとしてCDが出始めて、一般の人でも音声やムービーをCDに入れることができるようになっていた時期でした。

当時の僕は人に感動を与えるゲームの映像や画像を作りたかったんです。

 

当時はゲームを仕事にしようとすると、親は当然反対するわけです。

「ゲームって遊びでしょ?」となるわけです。

その当時から僕はゲームの開発はお金になるということと、エンターテインメント自体が産業になっている、という認識をしていました。

 

話はもどり、僕が広告業に嫌気がさし始めたころに、いわゆる「ソーシャルゲームバブル」の時代に入って、それまでゲームを作っていなかった会社がこぞってゲームを作り始めていきました。

2012年前後のことです。

 

その当時、たまたま以前にソーシャルネットワークのmixiで出会って連絡を取り合っていた現在のビジネスパートナーである現在の弊社の取締役が、当時は東京で人材派遣と制作をする会社の営業の仕事をしていました。

ゲーム関係の会社を多く担当していたんです。

 

お互い何年も連絡を取り合っていなかったんですが、突然、ある金曜日の夜に彼から電話が来ました。

そして、あるゲームのホームページを作ってほしい、と依頼してきました。

 

聞くとそのゲームは僕が大好きだった漫画のゲームだったんです。

もちろん二つ返事で「やるよ」となりました。

納期は「明日まで」って言うんです(笑。

制作業界によくあるやつです(笑。

懸命に作ってドヤ顔で納品しました。

ところがその時クライアント側ではすでに別な制作会社に決めていて、僕の作ったものは未公開のままボツになってしまったんです。

制作のお金だけをいただいて、使われずに終わった、というのが僕の一番最初のゲーム関連の仕事です(笑。

 

でもそれを機に、彼との繋がりが復活して初めて仕事を一緒にやった実績ができました。

 

「他に仕事があるのでやりませんか」となったわけです。

それがアバターと言われる着せ替えのイラストの制作の仕事でした。

 

この仕事が、当社が広告の制作の事業から、ゲームのイラスト事業に転換するきっかけとなった仕事でした。

 

アバターというのはイラストレーターというソフトを使用して制作している事が多いのですが、かなり緻密なパスデータを作るんですね。

 

1回あたり慣れた人が作っても丸1日かかる仕事なんです。

 

しかもデザインも考えながらですから、かなり負荷が高い仕事なんです。

先方は「慣れた人は皆やっていますよ」と言うんですけど、正直割に合わない仕事でした(笑。

ただ、ゲーム業界は、まず案件の数が非常に多かったんです。

 

放っておいても仕事が来る、という状況でしたから、当時の他の業種ではまず考えられない事だったんです。

価格は安いし大変ではあっても、それは単に当時の当社にノウハウが無いから、というだけの事でしたので、思い切って事業転換を決めたんです。

 

大学生の時の、ゲームを仕事にしたい、という思いの実現でもありました。

 

 

 

 

6.新しい事業の実現に向けて

 

まず社員に頭を下げました。

 

それまで広告を制作していた社員に、「どうしても絵を描いてほしい」と。

先ほどお話したアバターの仕事を内部でやりつつ、数百枚のゲームのキャラクターの絵を描く仕事がドカっと来たりしました(笑。

 

今と違って、当時のグラフィックのゲームのクオリティは、それほど高くなくてもバカ売れをする時代でした。

「とにかく数が欲しい」という要求だったんです。

 

我々はノウハウもないですし、イラストを描ける従業員が沢山いたわけでも無かったので、札幌中の専門学校などをまわって学生の紹介を依頼して、あらゆる人とお会いして協力をお願いしました。

そうやって100名近くを集めました。

つまり全員が素人です(笑。

だれもノウハウが無い状態の人を集めました。

 

そうして全員に契約の説明と仕事の説明をして、なんとか作って数百枚納品しました。

 

そうすると「コストの割にクオリティが高い」という評価をいただきました。

 

私ももともとはデザイナーなので、コストとクオリティのバランスは常に考えています。

でも、その仕事は投資と割り切って、コストをかけて高いクオリティのものを納品し信頼をいただける結果となったんです。

 

しばらくは、ゲームのイラストの仕事は赤字でやり続けました。

他で稼いだ利益を全部投入し続けたのです。

 

クリエイターへの還元率を一番高い会社にする、と宣言して進んでいきました。

クリエイターの皆さんには、「他社より安ければいつでも言ってください」と言いました。

 

本当にしばらくは自分に給料を払わずにクリエイターに還元していきました。

でもそれを続けることでクリエイターも育っていきましたし、社員も徐々に育っていきました。

 

利益追求型であれば、イラストレーター(イラストを描く人)は雇用しないで、全てフリーランスなどに外注したほうが会社のリスクは低減できます。

 

でも僕は、「社内にしっかりした職人がいなければクオリティの担保ができない」という考えのもとで、社内にも職人を育てていく方針をとってきました。

社内にイラストレーターを育てつつ、フリーランスの人への外注もする、という方法をとる事が重要と考えてました。

そのため、外注の人を確保しつつ、社員もどんどん採用していきました。

 

ゲーム関連のイラスト事業を始めた時には5人程の社員でした。

当時はまだ創業時の借入がまだ残っている状態でした。

でも、ゲーム事業に転換を決めてからは、仕事は断らなければどんどんある、という状態になったんです。

それであれば、ということで社員をどんどん増やして育てていくことに投資をしよう、としたんです。

でも採用にコストををかけれませんから、「Twitter採用」という手法をとりました(笑。

 

Twitterで声をかけて、お茶に誘って「こういう仕事をしませんか?」と入社のお誘いをするんです(笑。

それで仲間、社員を増やしていきました。

 

今では考えられませんね。

 

 

 

第2章に続く